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塗料と塗装の状況
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 わが国では、"うるし"が塗料として古くから使われている。石器時代でさえ木の蔓で編んだ籠に"うるし"を塗った容器があり、アスファルトが下塗り材として使われていたようである。
 また、七千年の昔、メソポタミア人の作った天然石膏の女性の肖像には、頭髪を黒くするための天然アスファルトが塗られている。
 "塗る"という行為は、人類の日常生活が人間らしい生活へと進展する頃に、はじめられていたと云えるだろう。即ち、"人類の文明"が始まった頃から、すでに行われていたのである。
 アスファルトは、現在の金属の防蝕にも使われているし、甲胄の防錆と着色に使われたり、寺院・仏閣などの建築物や、会津・輪島などの漆器にも使われている。
 塗料と塗装の人類生活史上最初の出現は、まさにアスファルトとうるしを塗っていた人類文明の開幕と同時であった、と言ってよいのではないだろうか。
 そこで、現在でも多く使われている油性塗料は、いつ頃から使われはじめられたか、と興味が湧く。
 これは14世紀の終り頃、ベルギー北部フランドルの画家ファン・アイク兄弟が、それまで工業用として使われていた乾性油に顔料と、開発した乾燥性を早くする媒剤とを混合した油絵の具を作った。この乾燥性を早くした油絵の具は、いろいろな顔料を使用して、それまでのテンペラでは得られなかった色艶をも表現できたので、大いに使われた。これが現在の油性塗料の使用のはじまりと云えるだろう。


わが国の塗料と塗装のはじまり
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 記録では、約2千4百年前の孝安天皇の代に、三見宿弥という人が器にうるしを塗って、宮中に献上した、とある。
 また、藤の木古墳に朱塗の塗料が使われている。
 油性塗料が行われたのは、安政元年(1854)にわが国に開国通商を求めて来航したペリーが、幕府の役人と会見した談判所に持参した油性塗料を塗装した記録があるので、これが最初に使われたことを示している。
 昭和33年(1958)に、横浜市元町公園内に「塗装発祥の記念碑」が立てられたのは、上記ペリーにかかわる資料の塗装に由来しているからである。
 わが国の塗料工業の出現は、明治7年(1874)頃東京開成学校(現東京大学)にドイツ人ワグネル博士が招かれ、その助手であった茂木春太の手による。即ち、彼の弟重次郎を指導して、顔料及び塗料の製造を開始した。茂木春太は中途で他界したが、茂木重次郎はついに研究を完成、明治14年(1881)に光明社(現日本ペイント)を設立し、本格製造を開始した。わが国の塗料工業の嚆矢である。
 他方、明治18年(1885)にはうるし工芸の権威堀田瑞松が、うるしを利用して「堀田さび止め塗料及び塗装」を出願した。これが特許第1号として登録されている。
 当時の塗料は輸入品全盛であったが、大正初期にかけて塗料メーカーが次々とでき、順次国産品に変わってゆく。


戦前の塗料業界の概観
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 大正9年(1920)の第一次世界大戦後の大恐慌で倒産や事業を整理する会社が続出したが、大正12年(1923)の関東大震災の復興用に塗料の需要が高まり、再び力を盛り返した。
 昭和初期では、フェノール・フタル酸・塩化ゴムなどの合成樹脂を利用した塗料が開発され、塗料新製品開発が芽生えてきた。
 昭和6年(1931)に始まった15年戦争(満州事変・支那事変・大東亜戦争などと称した戦争)が次第に拡大されるにつれて、統制経済体制に変わり、企業整備・取引制限・価格統制などの制約を受け、塗料工業も軍需産業に組み込まれ、昭和19年(1944)終末頃から昭和20年(1945)8月までの大空襲の反復で壊滅的損害を受けた。
 昭和20年(1945)、工場数69、焦土の中で再開した塗料メーカーの総生産は僅かに1万トンであった。


戦後の復興と近代塗料
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 昭和23年(1948)日本塗料工業会が結成されて、業界は復興に向かって努力を始めた。
 昭和26年(1951)には再び自由経済となって競争が激しくなったが、優れた合成樹脂塗料が続々と発表されるに従って用途は拡大していった。昭和30年(1955)代から40年(1965)代前半までは高度成長の波に乗って、塗料の生産高も30年15万トン、40年60万トンと飛躍的に増大した。
 戦後、堅練りペイントが大幅に減り、ほとんど調合ペイント(油性)にとって代わられ、顔料には従来通り亜鉛華を配合した「調合白亜鉛ペイント」が30年頃まで使用された。
 さび止め塗料も、戦前に多く使われた鉛丹とボイル油を現場で練り合わせる別タイプの鉛丹さび止め塗料が次第に少なくなり、昭和38年(1963)頃には殆ど使用されなくなって現在の既調合形に変わった。


さび止め塗料の多様化
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 昭和30年(1955)になると、技術革新の波はあらゆる産業に波及し、各分野において新製品と新技術の関発を促進した。塗料の分野においても同様であった。
 さび止め塗料は既調合形の鉛丹さび止め塗料が増加し、以前より開発されていた亜酸化鉛・塩基性クロム酸鉛・シアナミド鉛など、鉛丹以外の鉛系さび止め塗料が出廻り、官公庁関係工事にも多く採用されるようになった。
 さび止め塗料は、鉄面との付着性・浸透性・防錆性に油性さび止めも大きな長所があり、合成樹脂塗料万能の現在でも、油性さび止めが多く使用されている。
 のちに作業性・乾燥性の点で合成樹脂系さび止め塗料も、採り入れられるようになった。
 高度成長に伴い、合成樹脂技術の発達とともに、大型構造物や厳しい環境におかれている被塗物に対し、ジンクリッチプライマー、エポキシ樹脂系プライマー、塩化ゴム系プライマーなどが開発され多く使われるようになった。


合成樹脂系塗料の著しい進出
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 昭和30年(1955)頃より、従来の油性調合ペイントにかわり長油性フタル酸樹脂塗料(合成樹脂系調合ペイント)が中塗・上塗に使用されるようになり。耐候性(ばくろ性)が飛躍的に向上した。
 顔料も、亜鉛華、アプターゼ形チタンに代わり、白亜化(チョーキング)しにくいチタンが配合され、顔料・展色済(ビヒクル)両面の効果により、色相保持性・光沢保持性・耐水性・耐塩水性・乾燥性などの性能が向上し、数年間で殆ど切り替わった。
 その後、長油性フタル酸樹脂塗料から上塗塗料にもいろいろな合成樹脂系塗料が多く使われるようになった。
 塩化ゴム系、エポキシ系、アクリル系、ウレタン系塗料などである。
 最近は苛酷な環境下の被塗面に対し超厚膜形のエポキシ樹脂系塗料も開発され、耐候性に優れたふっ素樹脂系塗料やシリコンアルキド樹脂塗料も次第に使用されるようになった。


塗装方法の変遷
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 戦前からの人力によるケレン方法は、昭和28年(1953)頃より動力工具の使用が試みられ、電動のワイヤーホイル・カッター等による工法によって、除錆度・能率も向上した。
 さらに橋梁・鉄骨などの塗装では、昭和35年(1960)頃からブラスト処理による1種ケレンが標準の素地調整として採用されるようになり発錆問題は大幅に削減された。
 サンドブラスト法(珪砂吹付法)は、明治3年(1870)頃すでにアメリカで実施されていたが、わが国での使用はかなりおくれ、第2次世界大戦後(1945)に車両塗装で使われたのがはじめてのようである。
 橋梁関係では、昭和26年頃(1951)に試験的に用いられた記録があるが、一般的に取り入れられたのは、前記のとおり昭和35年頃からである。
 なお、ブラスト処理鋼板を放置した場合、すぐに錆が生ずるので、一次プライマー(ショッププライマー)として長ばく形エッチングプライマーが開発され、その後ジンクリッチプライマーも開発され塗装されている。
 昭和32年頃、エアレススプレー法の研究発表があったが、鋼構造物の塗装にエアレススプレー法が採用されたのは昭和40年(1965)代に入ってからである。
 スプレー塗装により作業能率が大幅に向上したが、現地塗装の多くは、諸種の制約もあり、現在でも主にはけ塗りで行われている。

(文献 関西ペイント株式会社発行「やさしい塗装のはなし」より抜すい)

 


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